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日本滞在2日目

8月10日 

 

 昨日5時頃、成田空港に到着し、大江戸温泉で村人4人による集会を行った。表現とお金というテーマについて、それぞれの持つ思いについてなど発表しあい、集会は夜2時まで続いた。

 

 今日は9時30分の東京駅行きのシャトルバスに乗り、それぞれ明日の準備を整えるために、単独行動を開始した。宿から東京駅までのバスは、勝どき駅新富町駅など、去年の夏に就職活動で訪れた場所を通過した。サラリーマンたちがクールビズワイシャツとスリムフィットスラックスを着て、ビルとビルの間を行ったり来たりしていた。

 

僕は東京駅から、なじみの街である池袋に向かった。山手線の車両は新しくなり、座席上の広告は電光掲示板になっていた。ラブライブという声優のアイドルグループとプロレスについての広告が流れていた。

 

池袋に着き、ラーメン二郎に入った。12のカウンター席にずらりと人が座り、僕ともう一人の青年が立って空席を待っていた。東京FM が流れ、「夏のうっかり告白」というテーマで番組を進めていた。日本の夏の雰囲気を感じる。「渋谷に友達と遊びに行きたいな。」と思った。少し汗をかきながら、楽々とラーメンを完食し、いつものベローチェに向かった。池袋東口には4件のベローチェが密集している。

 

店内でタバコを吸っていると、「イパネマの娘」がかかりだす。そして日記を書きたくなり、パソコンを開いた。移動していることと、東京の夏の影響で、テンションが少し高めである。誰か女の子と渋谷にビールを飲みに行きたい。残念ながら、14日までの滞在中に渋谷に行くことはなさそうである。村民の榎本君は「矢崎の社員は彼女がいなさそうな人が多い。」と言っていた。それを聞いた堀口君は苦笑していた。

 

今日はこれから本屋を数軒回る。その後、日本に留学中の友達フシッドに会えたら会いたい。そして早めに宿に戻り、調べものを少しして、温泉につかり、集会二日目を始めよう。  まず往来座という古本屋に行った。名前を忘れてしまったが、21歳くらいで死んだ女性の作家のコーナーがあった。ドグラ・マグラの映画のポスターを100円で買い、ジュンク堂へ梯子。インドカレーに関する本のコーナーが特設されていた。ムンバイの有名なインド料理学校の学長は日本人らしい。買いたいと思う料理本がいくつか見つかった。それから、旅行記エリアに行き、ドバイイスラエルについて調べる。イスラエルがとても魅力的に思えてきた。イスラエル人の友達にもメールを送ってウルバンについて聞こうと思う。

 

本屋を出て、隣のスタバのWIFIを使って、インド留学時代のクラスメイト、フシッドにメールを送った。彼は1年半ほど都内で日本語を勉強するらしい。5時頃に会いとにかく話しまくる。そして、どうやら日本であまり友達ができず、さみしい生活を送っていることが分かった。なんとなくインドで一緒に過ごしていた時より元気がなかった。最近、日本人のコミュニケーション方法がどれくらい独特なのか感じることが多いだけに、フシッドの苦労がなんとなくわかる。

 

2人で居酒屋に入り、日本語の練習や、日本食の紹介をした。枝豆、焼き鳥、おにぎりはおいしそうに食べていたが、串カツ、豆腐、に関しては、いまいちなリアクションをしていた。「嫌いなら嫌いとはっきり言っていいよ。」と言っていたが、なんとなく申し訳なさそうだった。フシッドはかつて、「俺は母親に甘やかされて育った。俺はお母さんが大好きだ。5歳までおっぱいを吸っていたくらいだ。」と言っていた。多分、食べ物の好き嫌いも多い方なのではないかと思う。

 

今度フシッドに会えるのは3月か4月になりそうだ。その時に日本についてどんなことを言ってくれるか楽しみである。

8月8日 帰国前日

 

 今日は、9時半から4時までカレー屋で働いた。

 

 「明日から、約1週間日本に帰らないといけない。」とボスのHarjinderさんに伝えると、「少し困るが、ゆっくりしてきな。今日の分まで給料払ってあげるよ。」と言ってくれた。まだ数週間しか働いていないのに、1週間も休むのは少し申し訳ない。

 

 バイトのインド人の女の子ジェニーは、「9月からシティーセンターのインディアンレストランで働けるよ。」という情報をくれた。今はフランス人の青年が働いているらしい。気になるフランス人である。今度レストランに行ってみようと思う。

 

  仕事の後、図書館で、アドベンチャースクールのセミナーを前に、今後どうしたいかを考えている。やっぱり、ドバイにぶっこみたいと思っている。観光ビザでドバイに入り、就労ビザを出してくれる職を見つける。もしくは、ビザを出してくれる、インド料理学校を見つける。ダメだったら、イスラエルヘブライ語の勉強をしながら、インド料理屋で働く。イスラエルはウルバンという学校に通えば6か月まで滞在することができるらしい。

 

   今やっているように、書いて、確認して、密な計画を立てていこうと思う。日本滞在中にドバイでビザを取るための大学卒業証明書を入手しなくてはいけないかもしれない。今日は早く帰って、出国の準備をしなくては。

Bomba Estereo

7月31日 

 

 この間の火曜日に、ようやく、働かせてもらえるインド料理屋を見つけた。ノースシドニー駅近くのフードコートにあるインディライトというお店である。火曜日にトライアルを1時間ほど受け、翌日から金曜日まで働いた。シェフは、僕のヒンディー語とインド料理に関する知識に驚いている。金曜日には、僕の3日間の仕事に対して、4日分のお給料をくれた。

 

 仕事を見つけてから、突然、ドバイに関するリサーチが進み始めた。必要な書類をそろえ始めるとか、大使館に行ってビザについて尋ねるとか、そういった段階に来ている。アラビア語の勉強も再開しなくてはいけない。アラビア語の独習を始めて3日後くらいにオーストラリアへ来ることになってしまい、全くはかどっていない。

 

 今、最寄りのUAE大使館はどこか調べた。どうやら、キャンベラが最寄りらしい。行く必要がないことを祈る。

 

 今日は、8時に起き、朝食にコーンフレークを食べ、まず、洗濯をした。乾燥機が誰かに使われていたので、屋上のスペースに洗濯物をつるす。今日出かけるときに必要な上着を部屋のヒーターの前につるして、早く乾かそうと試みた。

 

僕が洗濯物を乾かしている間、おそらく11時くらいに、ルームメイトのピーターはビールを飲み始めた。ピーターはオーストラリアにスポンサーを見つけ、もうすぐ移民が完了しそうらしい。リバプールの出身のピーターはビートルズが好きで、いつもビートルズを聴いている。何かのタイミングで、「With A Little Help From My Friendという曲のヴォーカルがポールマッカートニーかリンゴスターか。」という議論になり、ピーターがポールマッカートニー、僕がリンゴスターと主張し、ビールを一本賭けた。

 

午後になって、仕事用の靴を買うために、ボンダイ・ジャンクションのケイマートに行った。昼ご飯には中華料理のテイクアウト店で牛肉と玉ねぎのみそ炒めのようなものを食べた。安い靴を買い、そこら辺をぶらぶらして、帰り道、4本で6ドルのビールを買って、帰宅。シドニーに来てから、あまりぶらぶら歩きまわれていない。シドニーの好きな場所をまだ発見できていないでいる。レコード屋巡りとかもしてないし。明日の帰りは歩いて帰ってこようか。

 

宿に戻り、コロンビア人青年ルーカスとビールを片手に話す。Bomba EstereoとMonseiur Perineというコロンビアのバンドが好きだというと、「なんでしっているの。」と言うリアクションと共に僕を歓迎してくれた。ルーカスは何度もBomba Estereoのコンサートに行ったことがあると言っていた。うらやましい。

 

明日からも少しづつドバイに関するリサーチを進めていこう。

山下達郎

7月25日 

 

 Ed Mottaというシンガーソングライターが、日本のシティポップのファンであるという情報をネットで発見。そして今、山下達郎を聴いている。

 

 最近、簡単な日記すら書くことができないでいる。こんな有様では次の4月からインドの工場で働くという目標は達成できない。

 

 シドニーのインド料理屋で1か月みっちり修行、その後、ドバイ、というスケッチをしている。しかし、道のりは険しい。今までに5件ほどのインド料理屋に連絡したが、日本人であること、ワーキングホリデービザであること、経験が少ないことなどを理由に断られている。

 

 そして、生活費を稼ぐために、コンストラクションワークとビラ配りをしている。疲れてやるべきことができない日も多い。お金の奴隷である。もう少しエネルギッシュにやっていかなくては。

 

 明日はマルフに連絡して、ドバイについて尋ねる。それからマスジッドに行こうと思っている。ブライアンにもメールしよう。

 

 今月中にインド料理屋での仕事を見つけ、ドバイに長期滞在する方法を見つけたい。

コンストラクションワーク

7月17日

 

 シドニーに到着して1週間後の今月11日、宿の受付のムハンマドさんにコンストラクションワークを紹介してもらった。そして12日、13日の二日間、合計で20時間働き、360ドル受け取った。

 

 民家の建て替えの現場で、地面を掘り、掘った土を一輪車に載せ、10メートル先のコンテナまで運ぶという仕事をひたすらやらされた。現場で働いていた人たちの中で、僕は一番身体が小さく、力がなかった。一日目で体中筋肉痛になり、二日目は満身創痍だった。二日目の朝、運ぶように頼まれた一輪車が重すぎて、体ごと倒れてしまった。二日間はいいエクササイズになった。

 

大変な仕事ではあったが、健康であれば誰でもできる仕事に時給20ドルと言うのはオーストラリアの経済的豊かさを感じさせる。それに対して、板前さんの給料が15ドルほどだというのはアンバランスである。寿司屋さんにはもっと稼いでいて欲しいものである。

  

 15日はスコットというブリスベンで出会ったスコッティッシュ青年とニュータウンという地区に出かけた。スコットが気に入っているバーがあるというのでそこに入る。女性ボーカルの今風なロックバンドが演奏していた。お客さんも音楽を聴きに来ている風な人が結構いた。スコットが日本人の女の子と知り合いたいというので、そばにいたアジア人風の女の子に話しかけた。すると女の子はオーストラリアンアクセントの効いた早口な英語で返事をしてきた。僕は酔っぱらっていたので、彼女の英語を完璧に聞き取り、返事をした。そしてすかさず、スコットに話を振り、みんなで仲良く話した。

 

 インド料理屋の情報、ドバイの情報を収集しながらの週だったが、成果はなかった。少し急いだ方がいいと思う。次の4月なんてすぐに来てしまう。そういうふうにはなりたくない。

若い板前さん

7月9日 

 

 大学を卒業し、イケイケな貿易会社で4、5年働いた。しかし、外国で寿司レストランを開くことを目標に脱サラした。というお兄さんに昨日会った。

 

 「板前の価値は、5年から10年で一気に上がる。若い板前は少ないし、チャンスである。」、「板前という職業は、サラリーマンより頑張りが可視化されやすい。部活をやっているような気持ちよさがある。」などと言って、オーストラリアで和食屋を開く魅力を教えてくれた。

 

 「前の会社で今も楽しく働いている元同僚たちがうらやましい。」と言うお兄さんに対し、「サラリーマンは今時、安定した職ではないし、思考停止している気もする。お兄さんは、本当はうらやましいとは思っていない。」と突っ込んだ。

 

 「もともと板前で、海外に進出するパターンと、脱サラして、海外で板前を目指すパターンがある。シドニーで8、9店舗チェーン展開している和食屋さんは、板前の人が経営していて、内装などにあまり手が回っていない。」と言っていた。

 

 マヨネーズとポン酢とSrirachaを混ぜたソースを、おし寿司にかけ、それを揚げたものがニューヨークやカリフォルニアで流行っている。しかし、オーストラリアにはまだないらしい。Srirachaは病みつきになりそうな調味料である。

 

 オーストラリアで料理人として就労ビザを取るには、実務経験が2年だったか3年だったか必要で、お兄さんはそれを満たしていない。ので、オーストラリアの料理学校に90万円ほどの学費を払い、1年程度で修士号を取り、その後、就労ビザをとる。という作戦だと言っていた。料理の修士号があれば就労ビザもとれるらしい。

  

 オーストラリアで板前として働き始めるとしたら、時給15ドルらしい。僕でも簡単に見つけられる工事現場の仕事は22ドルである。

 

 お兄さんと、中華街近くの流行っていそうなパブに入った。アジアンな風体をしたバンドが演奏していた。奥に進むと、少し区切られたスペースがあり、本格的なタイ料理屋のようになっていた。音楽を聴きたい人、お酒を飲みたい人、ごはんを食べたい人がみんな満足できそうなお店だった。タイ料理屋は和食やより先を行っていると思った。

 

 お兄さんは、8月からシドニーのレストランで働くと言っていたので、再開を約束して帰宅。

ブリスベン最終夜

7月6日

 

 一昨日、ブリスベンでの最後の夜を祝うために、ボトルショップで安いワインを買い、宿で友人たちと飲んでいた。夜の11時頃、宿のスタッフに突然話しかけられ、「外で買ったワインを宿内で飲むことは禁止されている。すぐに宿を出て行ってくれ。」と告げられる。「夜中に追い出すなんて酷すぎませんか。外で買ったワインを飲んでいる人ならたくさん知っていますよ。」などと数分抗議したが受け入れられず、ワインを没収され、最後の夜の分の宿代も返してもらえず、追い出された。

 

 興奮状態を演じて、宿の僕に対する対応が酷すぎるということを訴え続けた。宿のスタッフは、議論の余地は全くないというような態度であった。途中、僕の声が大きかったせいか、何人かの友達が野次馬として集まってきて、僕に加勢するようなことを言ってくれていた。宿のスタッフは少し怖気づいたような感じになっていた。それでもまだ僕を宿から追い出したいようだったので、「わかりました。出て行きます。」と返事をした。

 

 1週間ほど前に宿で会ったカルロというイタリア人青年からテントと寝袋を5ドルで譲ってもらっていたので、今晩はそのテントを公園に建て、一晩過ごすことにした。コーレンという3年間の徴兵を終えたイスラエル人青年にテント建てを手伝ってもらう。テントができたころに、サムというドイツ人青年がビールを持って来てくれた。寒い日が続いていたが、一昨日はほどよい気温でテント泊日和だった。

 

 コーレンは僕がインド料理屋で働いていて、ヒンディー語アラビア語を勉強しているということに興味を持ってくれている。「イスラム教って興味深いよね。」と言う感じである。イフタールのパーティーに僕が毎日参加しているというと、「あれほんと楽しいよね。」とうなずいてくれる。音楽についても趣味が合い、イエメンブルースというイスラエルのバンドを教えてくれた。コーエンはコールズでお菓子を万引きし、すべてのコールズに出入りすることが禁止されたらしい。

 

 コーエンとサムと長々と話し、眠くなってきたので宴を終えた。テントに入って1人でじっとしていると、警察が来ないかとか、誰かに襲撃されないかとか少し不安になったが、すぐに眠れた。

 

 朝目覚めると、外は冷たい雨。鼻水とひどい咳が出る。路上生活は甘くない。テントをたたみ、空港へ向かった。ブリスベンの最後の夜は大変だったが、いい思い出になった。