若い板前さん

7月9日 

 

 大学を卒業し、イケイケな貿易会社で4、5年働いた。しかし、外国で寿司レストランを開くことを目標に脱サラした。というお兄さんに昨日会った。

 

 「板前の価値は、5年から10年で一気に上がる。若い板前は少ないし、チャンスである。」、「板前という職業は、サラリーマンより頑張りが可視化されやすい。部活をやっているような気持ちよさがある。」などと言って、オーストラリアで和食屋を開く魅力を教えてくれた。

 

 「前の会社で今も楽しく働いている元同僚たちがうらやましい。」と言うお兄さんに対し、「サラリーマンは今時、安定した職ではないし、思考停止している気もする。お兄さんは、本当はうらやましいとは思っていない。」と突っ込んだ。

 

 「もともと板前で、海外に進出するパターンと、脱サラして、海外で板前を目指すパターンがある。シドニーで8、9店舗チェーン展開している和食屋さんは、板前の人が経営していて、内装などにあまり手が回っていない。」と言っていた。

 

 マヨネーズとポン酢とSrirachaを混ぜたソースを、おし寿司にかけ、それを揚げたものがニューヨークやカリフォルニアで流行っている。しかし、オーストラリアにはまだないらしい。Srirachaは病みつきになりそうな調味料である。

 

 オーストラリアで料理人として就労ビザを取るには、実務経験が2年だったか3年だったか必要で、お兄さんはそれを満たしていない。ので、オーストラリアの料理学校に90万円ほどの学費を払い、1年程度で修士号を取り、その後、就労ビザをとる。という作戦だと言っていた。料理の修士号があれば就労ビザもとれるらしい。

  

 オーストラリアで板前として働き始めるとしたら、時給15ドルらしい。僕でも簡単に見つけられる工事現場の仕事は22ドルである。

 

 お兄さんと、中華街近くの流行っていそうなパブに入った。アジアンな風体をしたバンドが演奏していた。奥に進むと、少し区切られたスペースがあり、本格的なタイ料理屋のようになっていた。音楽を聴きたい人、お酒を飲みたい人、ごはんを食べたい人がみんな満足できそうなお店だった。タイ料理屋は和食やより先を行っていると思った。

 

 お兄さんは、8月からシドニーのレストランで働くと言っていたので、再開を約束して帰宅。

ブリスベン最終夜

7月6日

 

 一昨日、ブリスベンでの最後の夜を祝うために、ボトルショップで安いワインを買い、宿で友人たちと飲んでいた。夜の11時頃、宿のスタッフに突然話しかけられ、「外で買ったワインを宿内で飲むことは禁止されている。すぐに宿を出て行ってくれ。」と告げられる。「夜中に追い出すなんて酷すぎませんか。外で買ったワインを飲んでいる人ならたくさん知っていますよ。」などと数分抗議したが受け入れられず、ワインを没収され、最後の夜の分の宿代も返してもらえず、追い出された。

 

 興奮状態を演じて、宿の僕に対する対応が酷すぎるということを訴え続けた。宿のスタッフは、議論の余地は全くないというような態度であった。途中、僕の声が大きかったせいか、何人かの友達が野次馬として集まってきて、僕に加勢するようなことを言ってくれていた。宿のスタッフは少し怖気づいたような感じになっていた。それでもまだ僕を宿から追い出したいようだったので、「わかりました。出て行きます。」と返事をした。

 

 1週間ほど前に宿で会ったカルロというイタリア人青年からテントと寝袋を5ドルで譲ってもらっていたので、今晩はそのテントを公園に建て、一晩過ごすことにした。コーレンという3年間の徴兵を終えたイスラエル人青年にテント建てを手伝ってもらう。テントができたころに、サムというドイツ人青年がビールを持って来てくれた。寒い日が続いていたが、一昨日はほどよい気温でテント泊日和だった。

 

 コーレンは僕がインド料理屋で働いていて、ヒンディー語アラビア語を勉強しているということに興味を持ってくれている。「イスラム教って興味深いよね。」と言う感じである。イフタールのパーティーに僕が毎日参加しているというと、「あれほんと楽しいよね。」とうなずいてくれる。音楽についても趣味が合い、イエメンブルースというイスラエルのバンドを教えてくれた。コーエンはコールズでお菓子を万引きし、すべてのコールズに出入りすることが禁止されたらしい。

 

 コーエンとサムと長々と話し、眠くなってきたので宴を終えた。テントに入って1人でじっとしていると、警察が来ないかとか、誰かに襲撃されないかとか少し不安になったが、すぐに眠れた。

 

 朝目覚めると、外は冷たい雨。鼻水とひどい咳が出る。路上生活は甘くない。テントをたたみ、空港へ向かった。ブリスベンの最後の夜は大変だったが、いい思い出になった。

タブレジさん

7月3日

 

 昼休みにタブレジさんの家にお邪魔した。インドのテレビ番組をつけてくれた。ブレイキングニュースでダッカのテロ事件について報道していた。中国人か日本人が人質として捕まっているということだった。ネットで関連した情報を調べると、テロリスト集団は安倍総理のISISへの対応を踏まえ、日本を敵だとみなしているというような記事もあった。

 

 最後のシフトだったのでタブレジさんの人生について詳しくいろいろ聞いた。コルカタの小さな村に生まれ、学校に数年通い、家の畑仕事を手伝い、その後16歳でバンガロールに出稼ぎに出た。まず、6年間小さなレストランで働いた。その6年はとても大変な期間だったらしく、工事中のビルの警備員さんにお金を払い、中に住ませてもらっていたと言っていた。それから料理の免許を取り、チェンナイのレストラン、ホテルを経て、バンガロールのタージホテルのポストについた。タージホテルはムビースターなどが泊まるホテルであるらしい。タージホテルではシェフが90人ほどいて、その中で何度か賞をとたこともあるらしい。

 

 いろんな国のインド料理屋が、タージホテルで働く腕のいいシェフをヘッドハンティングに来るらしい。タブレジさんは一度日本のレストランからもオファーをもらったが、ポークカレーを出す店だったために断ったと言っていた。いろいろな国のインド料理屋をインターネットで検索すると、タージホテル出身のシェフが働いているという情報が頻繁に見つかる。タージホテルから世界に広がるネットワークはとても広そうである。もっと詳しく調べてみたい。

 

 別れの挨拶はとても気持ちよかった。これからもインド料理を勉強し続ける予定であることを伝えると応援してくれた。サベルさんは別れを惜しむのが苦手なタイプだった。「それではまた。インシャアッラー。」と言って気持ちよく退職。

Iftar

7月2日 

 

ラマダンのための断食を終える時間をイフタール。

 

ボスのタブレジさんに、「ビリヤーニをマスジッドに届けてくれ。」頼まれ、息子のタスリムと共に夕方5時10分のイフタールに、近くのMasjid Taquaに行った。

 

 ブリスベンで何度かマスジッドへ行ったが、いつもインドネシア人に話しかけられ、それをきっかけにコミュニティーへ溶け込んでいく感じだった。今回も同様で、マスジッド到着後すぐにインドネシア人に話しかけられ、ビリヤーニを届けに来たということを話すと歓迎された。

 

 フルーツの盛り合わせを配膳するのを手伝っていると5時10分になり、断食を終了。デーツという干し柿のようなものを最初に食べる。昨日から、マスジッドに行く予定を立てていたので、僕も朝にお茶を飲んで以降、断食していた。フルーツの盛り合わせを食べるとおいしすぎて笑顔になってしまう。断食は味覚を敏感にしてくれる。

 

 フルーツの後、礼拝。いつもならマスジッド内の隅で人々が祈る姿を眺めるだけだが、今日はタスリムが一緒に祈ろうと誘ってくれたので祈った。祈っている間はタスリムのことを考えていた。NRI二世のタスリムは普通の学校へ行き、喧嘩や恋愛の西洋的あり方を知っている。そして彼はマスジッドへはあまり行きたくないという。タスリムの悩みは深い。励ましてあげるのがとても難しい。

 

 礼拝の後、我々モーティー・マハル・レストランが寄付するビリヤーニを配膳。子供からおじいさんまでおいしそうに食べていた。朝から我々モーティ・マハルが長時間かけて作ったかいがあった。ビリヤーニは手間のかかる料理である。

 

 レストランに戻り、ビリヤーニが好評だったことをタブレジさんに伝えると、喜んでいた。そして「今日は飯食って帰りな。」と優しく言ってくれる。明日のシフトを最後にシドニーへ行くということを確認し、今日の仕事を終えた。シドニーへ行ってからもモーティ・マハルとは連絡をとり続けたい。明日はいい感じのお別れをしたい。

シドニー

6月28日 

 

 シドニーに移ろうと思っている。マスジッドで出会ったマルフが、シドニーで仕事を探す協力をしてくれている。

 

シドニーではオーストラリア人と親しくなる努力をしたい。今日宿で出会ったマンチェスター育ちの青年に、オーストラリアと日本とどちらが好きかと聞かれ、答えに悩んだ。日本のほうが好きだと即答したが、オーストラリアのことも日本のことも分からないことばかりで、答えを出すのが難しい。もっと勉強しなくてはいけない。

 

 バックパッカーに住んでいると、僕が日本でどれだけ偏った人と話しているのか実感する。

 

村上春樹ジブリのアニメが好きなオーストラリア人、ウディに「村上春樹は好き?」と聞かれ、とりあえず「好き。」と答えた。そして、「オーストラリア人の作家を教えて。」と尋ねると、「Tim Winton、Geraldine Brookes、Tim Flanery、Helen Caldercott」と頑張って思い出すように教えてくれた。「なんでオーストラリア人の作家が知りたいの?」と質問を返され、「わざわざオーストラリアまで来たので、オーストラリアのことがもっと知りたいと思っている。その国を知るために、その国の作家についても多少知りたかった。」と答えた。続けて、「ブルース・チャトウィンの『ソングラインズ』知ってる?」と訊くと、「知らない。」という答えが返ってきた。

 

宿で会った多くの友達が、オーストラリアのワーキングホリデーの後、東南アジアを旅行すると言う。「どうして東南アジアなのか。」と訊くと、「安い。」という。「南アジア、中東、東ヨーロッパも安いじゃん?」と訊くと、なんとなく面倒くさい質問をあしらうような感じになる。

 

宿で会った友達に「最近仕事はどう?」と聞かれ、「ムスリムの仕事仲間とラマダンの時を過ごすのは楽しいよ。毎日夕方5時10分にパーティーだよ。」と答えると会話が終わった。

 

人それぞれ何が重要な情報であるかは大きく違う。それを忘れないことが重要。広くいろいろな情報を気にすることも大切だと思う。

タンドール

6月26日 

 

 初めてタンドールの中に手を突っ込み、ナンを焼いた。あまり熱さは感じなかったが、手は赤くなった。指に微妙に生えている毛は残っている。タブレジさんとサベルさんの右腕は、日々タンドールに腕を突っ込んでいるせいで、腕毛が焼けてなくなり、つるつるになっている。徐々にタンドールの奥深くまで手を突っ込み、二人のように右腕をつるつるにしたい。

 

 仕事後にタブレジさんの19歳の息子、タスリムとチキンサーグワーラーを食べながら話す。タスリムは高校時代、1人の女の子を巡って友達と殴り合いの喧嘩をし、20日間の謹慎処分を受けたことがあると言っていた。父であるタブレジさんは特にタスリムを責めることはなかったという。

 

 レストランでの日々のおしゃべりからは、同僚たちの意外な一面を知ることができる。想像できない話ばかりで、毎日驚いている。思い返せばタブレジさんも、オプタスからかかってくる電話に対して怒鳴り散らしていることがあった。もしかしたら、喧嘩っ早い親子なのかもしれない。

 

 「また来週の水曜日に!」と言って店を去るとき、タブレジさんに呼び止められ、少々お小遣いをもらった。帰り道はディスコクラシックのセプテンバーを聴きながら帰った。

ハムドゥリッラー

6月25日 

 

 来週の水曜日でモーティーマハルを去ろうと考えている。去って、シドニーに移動して、インド料理屋を探そうと考えている。

 

 一昨日、オーナー兼シェフのタブレジさんの14歳の娘、ヌゼラとゆっくり話をした。タブレジさん一家は2、3年に一度、2か月程度、コルカタに里帰りしている。そのことについてヌゼラに訊くと、楽しそうにいろいろ答えてくれた。タブレジさんは、コルカタの田舎に、ベッドルーム10部屋、バスルーム3部屋の大きな家を建てた。そこには親戚がたくさん住んでいる。どれくらい田舎かと言うと、ショッピングモールも、スーパーもなく、女性は自由に外を歩くことができず、ヒンディー語が話せない人も多いくらい田舎らしい。

 

 率直に、インドは好きか尋ねると、好きだと言っていた。それを聞いてなぜかすごく嬉しくなった。「インドにいるときは、何をして過ごしていたの?」と訊くと、「家でゴロゴロして、親戚とおしゃべりして、家事を手伝う。家でごろごろしているのが好きだから、外に自由に出られなくても楽しいよ。」とヌゼラ。将来、インドに住みたいかどうか訊くと、「自由で、良い教育が受けられるオーストラリアのほうがやっぱり好き。」と言っていた。

 

 タブレジさんはヌゼラに「好きなことを勉強していいよ。」と言っているらしい。学校の成績がとても良いヌゼラだが、「将来は化学か生物が勉強したい。でも4年も大学に通うのは嫌だ。」と言っていた。ヌゼラの人生を映画にしたい。

 

 今日はラマダン終了10分前くらいに、僕にモーティーマハルを紹介してくれた友人、マルフが来店した。仕事はどうかと聞かれたので、楽しくやっていると伝えた。マルフは断食終了後のために、チキンサーグワーラーを注文していた。断食後にチキンサーグワーラーを食べるなんて、ダンディーだと思う。ブリスベンを離れる前に、マルフとムハンマドにお礼がしたい。一緒に断食して、マスジッドに行って、モーティーマハルで一服とかしたい。